偉人と呼ばれる人たちは、山あり谷ありの人生をどのように生き延びたのか。ライターの栗下直也さんは「例えば、漫画家の水木しげるさんは職を転々としてもまったく気にしなかった。働くことはあくまでも幸福になるための手段でしかないことがとわかっていたからだ」とい ...
当時は漠然と、大学卒業後は地元(愛知)の実業団チームで競技を続けたいと考えていたが、2年時以降は故障に悩まされた。そして大学卒業後、スポーツライターの道を模索。現在に至っている。もし実業団に進んでいたら、スポーツライターにはなっていなかっただろう。
仲間たち7人で街頭募金や行政が所有するビルの占有をするなどして日銭を稼いでいると、仲間内で魚屋を始めたらどうかという話になった。当時、魚は配給制だった。魚屋の免許さえもてば後は週に1回の配給日に魚を配ればいいだけだとそそのかされる。
学生ランナーの場合、大学3年時までに箱根駅伝に出場するくらいの実力を持つ者は8割ほどが実業団に進む。今年の箱根駅伝に登録(1チーム最大16人)された4年生は105人(出走者は70人)いたが、そのうち約60人が大学卒業後も実業団などで競技を継続する予定 ...
話の中身やキャラクター設定の問題以前に、朝鮮戦争による特需やテレビの登場など時代の大きな変化もあり、紙芝居業界全体がダメになっていた。その後、昭和32年(1957年)に背水の陣で再び上京して貸本漫画家に転じるが、相変わらず生活は苦しかったことを水木は ...
徹夜は週に1度がやっとで、徹夜した翌日は10時間以上寝たというから、徹夜の意味があまりない。水木の壮年期は食うためにはなんでもやった時代で、特に戦後すぐは正業も副業もない時代だった。今とはあまりにも時代背景も違うが水木はこう諭す。
その頃、水木は学校で衝撃的な発言を聞いていた。「絵描きになるには1000万円ないと生きていけないよ」。つまり、資産家の子どもでもなければ目指すものではない。水木がそれを聞いて、ゲゲゲと驚いたかは知らないが、絵描きとは昔からそういう職業だった。
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